『いろは』に行くにはまだ遠い!
<1>〜<6>
 
 
 

 

  

 .....時は平安.....

人が、鬼と精霊と、もののけと同居していた、雅びやかで、陰惨な時代.....

 

 この物語は、長い日本の歴史のなかで、もっとも麗しく、はなやかで、そして摩訶不思議な時の流れを舞台に繰り広げられる。

    

   

 内裏の雅びやかな一室。

 僧衣をまとった、ひとりの人物が、物思いに耽っていた。

 

『永泉様、こちらへ!』

『ここは危険です、私の後ろへお下がりください』

『怪我はありませんか? よろしければ、私の腕におつかまりください』

  

 と、とある人のセリフを思い出し、ほう.....とため息をつく。

 彼の名は永泉という。

 現在僧籍に身を置く、十七才の少年である。僧だというのに、肩ごしにのばした濃紺の髪は、つややかで眩しいほどであった。

 

 寺院に生を受けたわけでもないのに、敢えて僧となった身の上には、複雑な政治的背景があるのだ。

 しかし、くよくよしてもいられない。

 彼は十七才、青春まっさかりの、恋に身を焼く熱い男の子だったのである。

 

「ああ.....今日は物忌みですね.....外に出られない.....

 ふたたび深く吐息すると、永泉はおもむろに香壷をとりあげた。

 この時代、気に入りの香を焚くのは、貴族の日常でごくあたりまえのことであった。風雅を解する帝によって、香合わせなど、宮中の公式行事として執り行われたりするのだ。それはそれは雅びやかで華やかな一場面になるのだろう。

 永泉の好きな香は黒方という。

 しっとりとした深みのある香だ。これを上手に合わせられる者はなかなかいない。

 この永泉、なにをかくそう、今上の腹違いの弟にあたるのだ。

 僧籍に身をやつしたのも、そのあたりの事情が原因なのである。それゆえ、彼は、立ち居振る舞い、そして香合わせ、和歌など、雅びの道についてはエキスパートなのである。

 

「外にでられませんね.....頼久殿.....

 ここにいない人物の名をつぶやくと、静かに香壷を受け皿においた。

 ふわりと甘やいだ、しかしさわやかな香りが、上品なつくりの室内に満ちる。

 これは黒方ではない。

 .....梅香.....

 源頼久が以前、好きだと言っていた香である。もちろんその話をしたのは永泉に対してではない。龍神の神子との会話を漏れ聞いたのだ。

 

「ああ、もはやこの狂おしい気持ちは押さえられません.....

 独り言のくせに、胸の前で手を組み合わせたり、そうかと思うと、そばにある懐紙を噛み締めたり、忙しいことこの上ない。

.....頼久殿.....あなたはわたくしをどう思って下さっているのでしょうか.....

 考え込む。

 だが、答えなんか出るはずがない。たずねたことなどないのだから。

「きっと、八葉としては力不足で.....たよりない存在だと思っていることでしょう.....

 以前、安倍泰明にぶちまけた心情を、ふたたび独白のうちに吐露する。

「で、でも、頼久殿は、そんなわたくしにも親切で.....闘いの時にも、いつもかばってくださって.....そ、そうです、笛の音をほめていただいたこともありました!」

 永泉は笛の名手である。頼久に限らず、あの泰明でさえ、永泉の笛をほめたにもかかわらず、彼の意識は源頼久ただひとりに注がれているようであった。

 

「す、少しは.....綺麗で、可愛くて、やさしくて、放ってはおけないほど、愛らしい人.....だなんて、思って下さったりしてて〜っ! きゃっ!」

 意外にも、彼は妄想に遊べる少年らしい。

 まだ、幼さの残る、白い頬を昂揚させて、いやいやとばかりに、衣の裾をいじくる永泉であった。

 よくいえば、純情一直線、悪く言えば、ゴーイングマイウェイの夢想家さんであろう。

「こうなったら、わたくしの気持ちを告げるしかありませんよね.....でも、もし迷惑に思われたら.....

 人並みに煩悶してみせる。

 だが、

「いえいえ、大丈夫! 愛は崇高なものです。惜しみなく与え、尽くす愛こそが真実なのです!」

 そう結論付けると、文箱をがさがさと漁る。

 なんといっても、今上の御弟君。大切な恋の告白には、やはり雅びをこらした文をもってしてこそであると考えたのだ。

「いきなり、わたくしをもらってください、はまずいですよね」

 まずいに決まっている。

 煩悶しているわりには、いうことが恐ろしく大胆だ。

「やはりたしなみがなくては.....じゃあ、愛しております.....かしら。ううん、それも唐突すぎます」

 唐突すぎる。あまりにも。

「では.....和歌.....いえ、それはよくありませんね。頼久殿は武士でいらっしゃるから、あまりにまどろっこしい表現方法では、誤解されてしまう恐れがあります」

 そのあたりの認識はあながち、間違ってはいないようであった。源頼久は、左大臣家に使える武士団の若棟梁なのである。

 実直でまじめな青年だが、だからといって、武士の彼が、和歌や漢詩に通じていると言うわけでもなかろう。

 そのあたりは、きちんとリサーチ済みなのだ。おっとりしているようで、抜け目がない.....なかなか手強いお坊さまであった。

 

 ようやく、気に入りの和紙を選びだすと、すずりに黒々と墨をすり、永泉は、えいやっ!とばかりに腕まくりした。

 「橘の少将殿.....少しよいでしょうか」

 橘友雅が背の高い青年に呼び止められたのは、左大臣家の離れの中庭であった。

 西方の離れは、藤姫ら、星の一族と称される人々が居している。さっするところ、橘の少将殿は、姫君たちのご機嫌伺いに来たのであろう。

「おや、頼久、久しぶりだね」

 友雅は、宮廷の女房どもをとろけさせる甘い微笑を、その白い顔に浮かべた。

「はぁ、まぁ.....それより、お尋ねしたいことが.....いえ、あなたにわたくし事をお聞きするのは、ご無礼だと自認してはいるのですが.....

 なんともいいにくげに、源頼久は言葉を紡いだ。

 彼は武士団の若き棟梁である。清和源氏の流れを汲む彼の一族には、必ず『源』の一文字がつく。

 彼の容貌は、秀麗にして端正と評して、なんらひっかかりのあるものではなかったが、それ以上に、質実剛健な印象が強かった。

 鴉の濡れ羽色の黒髪を、無造作にまとめあげ、組み紐でひとつにくくり、いでだちは、すっきりとした若武者衣装に、豹柄の短い上衣を身につけている。眼光鋭く、腰にはぐいと大剣がたずさえられていた。

 頼久は、実直で生真面目を、実証するかのように、低い声で口数少なく、ひかえめに声をかけてきたのだ。

  

「遠慮しないで、なんでも聞いてくれたまえ。同じ八葉なんだから、もっと親しげにしてくれてもいいと思うんだけどね」

 友雅は六つ年下の、この無愛想な青年を気に入っているようであった。

 銀糸を織込んだ、艶やかで華やかな衣装と同じように、なまめかしい笑みを手向ける。

 そんなしぐさひとつで、武骨者の頼久は目のやり場に困惑してしまう。

「話ってここでいいの? 水殿の方にでも行かないかい?」

 自分の屋敷でもないのに、いけしゃあしゃあと、友雅はたずねた。

「いえ.....では.....池のほうに.....

「そうだね、確か、東屋があったよね」

 美しく整えられた庭園の隅の方。この時代、貴族の住居.....寝殿造りの屋敷では、水を流して渡殿をかけたり、築山をこしらえるのは、ごくあたりまえの風景であった。

 春には春の草花が萌え、初夏にもさしかかろうというこの時期には、さつきが美しかった。

 

「これをいただいたのですが、いったいどういうことなのでしょう?」

 教科書を読み上げるように言うと、頼久は、薄墨色.....今風にいえば、シルバーグレーのような、上品な和紙をとりだした。

「おやおや、頼久も隅にはおけないね。美しい紙じゃないか..... .....ん? この手蹟は.....

「永泉様からです。いったいどういう意味なのでしょうか?」

 物を考える時のくせで、若武者は腕を組んで頬杖をついた。

 

.....どう言う意味も何も.....

 

『愛しい頼久殿ヘ

 あなたの笑顔がわたくしに向けられるたび、この小さな胸がドキドキと高鳴ります。あなたの力強い腕に守られていれば、恐ろしい闘いでさえ、わたくしにとっては至福の時となるのです。

頼久殿.....わたくしは、心からあなたをお慕いしております。

どうかお側に置いてやって下さいませ。わたくしだけの頼久殿になってくださいまし .....あなかしこ』

 「.....友雅どの?」

 読みすすめていくうちに、生きた化石となってゆく橘の少将を源頼久が不安げに見上げた。

「い.....いや、失礼。あまりにも率直で.....少々、めんくらった」

 友雅はそうつぶやいた。

「『側に置く』とはいったい、どういう意味なのでしょうか? 今、現在でも、恐れながら八葉の同輩として、ご一緒する機会も多いのですから。今さら側にいるもなにも.....

.....頼久.....『側にいる』と『側に置く』とは、大分ニュアンスが異なると思うのだがね.....ふぅ.....

 耳にしたこともないようなヨコモジの単語をひっぱり出して、橘友雅は深く吐息した。

 そんな彼の気も知らず、藤姫にさえも武骨者といわれた武士団の棟梁は、なおもいいつのった。

「わたしだけの頼久.....というのは、非現実的ですね。この身は左大臣家に仕えておりますし、いや、それ以上に龍神の神子殿あっての私だと心得ております」

.....頼久.....それを永泉様の前で言うんじゃないよ。.....どうやら、私の想像以上に.....いや、それをぶっちぎるほど、一途で大胆な子らしいからね」

 むしろ怖々と友雅は言った。だが、またもやそんな彼の煩悶をよそに、源頼久はざくっと切り込んできた。

「ようはなにがおっしゃりたいのでしょうか?」

.....わかるだろう?」

「いいえ」

 尻上がりに低い声が返ってきた。

「永泉様は君のことが好きなんだよ.....

 常ならば、色恋沙汰について語る時、口調も軽やかに、浮ついた話もできようものの、ここまではっきりとした、意思表示の文をつきつけられては一言もないといったところか。

「そうなのですか。好かれるのは恐れ多くも喜ばしいことでございます」

 四角張った頼久の返答である。

「意味合いが全く異なるのだがね.....

....................?」

「いいかい、頼久。永泉様は君のことを『愛してる』んだよ。ライクじゃなくて、『ラブ』のほう」

「らぶ.....?」

「ああー、だからねぇ.....永泉様は君を恋していて、どうぞその気持ちを受け入れてくれと、そう願っているわけだよ。ここまで言えばわかるだろう」

 わかってくれといわんばかりに、橘の少々はわずかに目線の高い、年下の男の顔をみやった。

.....恋していて? 私を?」

「そうだよ。はっきり書いてあるじゃないか」

「どの部分にですか?」

「全部だよっ!」

   

.....騒々しいな、なにを謎掛け漫才のような会話をしている」

 華奢な肢体が、ついと築山の向こうからあらわれる。

 無愛想このうえない物言い。

  

 そこだけ涼風を巻き起こして、姿をあらわしたのは、安倍泰明であった。

 「おや、これは嬉しいお客さんだね」

 あくまでもからかうような口調は、いつもと変わらないが、どことなくホッとした雰囲気がうかがえる。不毛な会話を打破してくれると、期待したのかもしれない。

 .....だが、この時、橘友雅は失念していたのだ。最愛のスーパー陰陽師くんは、源頼久に、負けず劣らずの朴念仁であったことを。

 

「ただ通りがかっただけだ。もう行く」

 泰明は無愛想にそう返した。

「まぁまぁそう言わず。よければ三人で、少し話をしないかい?」

....................

 ふた呼吸置いたくらいで、

「かまわんが.....

 と、安倍泰明は応えた。

  

  

.....これを、永泉様からいただいたらしいんだよ」

 そういうと、橘の少将は、薄墨色に黒方を焚きしめた上品な文を、ついとすべらせた。もちろん泰明の目の前にである。彼はそれを無造作にとりあげた。

 変わらぬ表情で一読する。

.....ずいぶんと熱烈な文だな」

 文に連綿と綴られている、恋の情熱とは、まるで正反対の冷ややかさで彼は言った。

「ホントだよねぇ、若いっていいねぇ」

「からかわないでください。友雅殿」

「からかうだなんてとんでもない。私は心底君たちがうらやましいのだよ」

 そういうと、橘の少将は、巧みに琵琶をかき鳴らす、白く細い指で、くせのある長い髪を弄んだ。

 

.....で、どうするつもりだ?」

 安倍泰明は率直に、源氏の若大将にたずねた。

「え? はぁ.....どうするとは?」

 歯切れの悪い源頼久の返事に、泰明はいら立ちをこらえて、つっけんどんに、しかし明快に言い放った。

「決まっていよう。永泉はおまえを好いていると言う。しかも特別の意味合いにおいてな。ならば、おまえの採る道はふたつにひとつだ。あれの気持ちを受け入れるか、迷惑だと切り捨てるかだ」

「まぁまぁ、泰明殿。綺麗な顔をして相変わらず手厳しいねぇ」

「事実を語っているまでだ」

「ふふふ、いずれにせよ、なにも今すぐ、そこまで突き詰めなくともいいだろう」

 やわらかく友雅がとりなした。さまよえる不良青年、風流男、橘友雅の意中の人は、なかなかシビアな人物であった。

 安倍泰明。

 彼は、歴史に名高い最高最強の陰陽師、安倍晴明の愛弟子なのだ。

 

「困りましたね。お気持ちは嬉しく思いますが.....しかし.....

「逆接の接続詞だな、頼久。おまえにその気がないのなら、はっきりと断わってやったほうがよいのではないのか」

「まぁまぁ、泰明殿。.....ん〜、では、頼久は、永泉様のことをどう思っているんだい? ああ、もちろん、好きだのなんだのと、色っぽい部分を抜きにしてでもかまわないから」

 友雅の助け舟にしがみついて、武骨な源氏の若大将はぼつりぼつりと、言を紡いだ。

「ええ.....おやさしい.....あどけない方だと思います。まぁ、御身分もあるのでしょうが.....おっとりとしていて.....

「うんうん」

「そうですね.....特別な意味合いで、彼のことを考えたことなどありませんから、この程度のことしか言えません」

「ふん、永泉はなかなか愛らしい顔をしているではないか」

 やや意地悪く泰明が言った。

「はぁ、そうですね、お可愛らしい方ですよね」

 ぼんやりと頷くニブい頼久だ。

「では、どちらかというと好みのタイプ.....ということになるのかな?」

 なるべく良い方向へ持っていこうとする友雅。

「好みも何も.....さきほども申しました通り、特別な目で彼を見たことなどありませんから。だいたい彼は男性でしょう。子孫を残せない者同士が結ばれても、あまり益はないと思うのですが」

 しごくまっとうな意見を、頼久が吐いた。

 その瞬間、長髪の陰陽師の顔が、わずかに苦しげに歪んだが、彼は気づかなかった。友雅が泰明に向き直った時、その『悲壮』ともいうべき表情は、あっという間に、なりを顰めた。

「ふぅん.....恋はなんでもありだと、私は思っているのだけどね。まぁ、頼久はそういう考えなんだね」

.....? ええ、普通だと思いますが.....

「『普通』と『正常』ほど、曖昧な定義の言葉はないと思うんだけどね。まぁ、いい。とにかく君には永泉様を受け入れる気持ちはないということだ」

 ややきつい口調で友雅が言った。

「よく.....わかりません.....受け入れるだのなんだの.....私は今の関係のままがよろしいと思っているのです。今ならば、恐れながら永泉さまとご一緒に、つつがなく八葉のつとめを果たすことが出来ますし、お互いに信頼しあっていると私は感じています」

「そう.....君のいうことは本当にもっともだと思うよ。まぁ、いずれにせよ、君と永泉様の問題だ。外野がとやかくいうことではないからね。人の恋路を邪魔するものは、馬に蹴られて.....うんぬんかんぬんという格言もあるからね。とりあえず、私は傍観者の立場をとらせてもらうよ」

.....変に期待を持たせるほうが、気の毒だと感じるがな。だが、おまえ自身のことだ。納得のいくようにするがいい」

 友雅と泰明は、順にそういうと、席を辞したのであった。

 

 やれやれとひとつ大きく吐息する、源氏の若大将、源頼久。

 前途多難に嘆息するのを、止めるものはいなかった。

「どうしたの? さきほどから、ずっと黙ったままじゃないですか?」

 銀鼠色の扇を一振りし、夏の虫を追い払うと、橘友雅はとなりを歩く、細身の陰陽師に声をかけた。

「別に.....

 泰明の返事はいつもこうである。

 芳しくない物言いに、いちいちめげていては、気難し屋の彼の恋人など、勤まりはしない。もっとも「恋人」と自負しているのは、友雅のほうだけだったかもしれないが。

「頼久のことが気になるの?」

「違う。人事だ。オレには関係ない」

「ふふ、そうだね」

 あえて、反論はせず、橘の少将はやわらかく受け流した。泰明は、なんとなく不満げに、ちらりと友雅の横顔を盗み見た。

.....友雅」

 今度は泰明の方から声をかける。

「なんだい?」

.....いや、その.....

「なに? 言いにくいこと?」

.....たいしたことではないのだ.....

 ぼそぼそとつぶやく。

「いいじゃない。話してごらん。ああ、部屋に上がろうか」

 石畳から、そのまま渡殿へ上がってしまう。反則技だが、友雅も泰明も、そういったことを気にするタイプではない。

「私の局でいいよね。ああ、そうだ、甘いものもあるよ」

「菓子を食いに行くわけではない」

「はいはい」

 友雅のために、土御門邸の西の対.....ちょうど藤姫らが起居している対の屋に一部屋設けられている。たまにしか立ち寄らない友雅が申し出たはずはないのだから、左大臣が気を使ったのだと推測される。このあたりの配慮は、さすがに三位の少将という身分がそうさせるのだろう。

 

 迎えに出た女房を下がらせて、手ずから湯と菓子を準備する。泰明は酒が苦手なのだ。友雅はそれなりにたしなむが、彼に合わせているのだろう。

 菓子を食べに来たのではないと、そっけなかった安倍の陰陽師殿は、無言で干菓子をぽりぽりと食べている。口の中が甘ったるくなると、熱い湯を飲んでいる。

 遠慮するでもなく、食べたいように菓子をほおばる泰明は、やはり十も年下の青年なのだと、友雅は感じた。

「なんだ、おまえ、なにを見ている?」

 無愛想な物言いが、こんなときには、いっそ子供っぽくてほほ笑ましい。もちろんそんなことを口にしようものなら、どんな報復をされるか知れたものではないから、軽々しく言ったりなどしないが。

「いや、なんでもないよ。それ、おいしい?」

「まぁな。悪くはない」

「そうか、よかったね」

「おまえは食わんのか?」

「私は、あまり甘いものは食べないんだよ」

 友雅が苦笑しつつ言った。

「ふぅん」

「でも、女の人はそういったものがお好きだからね。よくいただくんだが」

.....ほぉ」

「それは四条の御方からいただいたんだよ」

「へぇ」

.....それだけ?」

 ふぅと吐息する友雅。なかなか思惑通りの反応を返してくれない、彼の想い人であった。

「ヤキモチとか.....妬かない?」

「なぜ、そんなことしなければならんのだ。おまえがどこの女となにをしようが、オレには関係ない」

 とりつくしまもないとは、このことであった。

「少しは進歩したと思ったんだけどね.....

 ひっそりとしたため息まじりのつぶやきは、泰明の耳にははいらなかったようだ。

.....な、友雅」

「うん?」

 長い髪の陰陽師は、手にしていた湯呑を膳に戻すと、独り言のようにつぶやいた。

「頼久のことなんだが.....

「ああ、さっきの話ね」

「うむ.....やはり断るのだろうな」

 まるで自分が拒否されたように、悄然として泰明がささやいた。

「そうだねぇ.....あの反応からすると、あまり期待は持てないかもね」

 友雅が言う。

.....永泉、きっと傷つくであろうな」

 めずらしいセリフだ。友雅もそう感じたのだろう。ひょいと眉を持ち上げると、となりにある整った小さな顔を見つめた。

「めずらしいね、泰明殿。君がそんな風に言うなんて」

.....そうか?」

「ああ、悪い意味じゃなくてね」

「ふん、じゃあ、いい意味とはどういうことだ」

 揶揄する泰明。

「すぐまたそういう.....

 小生意気な、困った子供をなだめる口調で友雅は続けた。

「だって、君は永泉様のお気持ちを気づかってさしあげているんだろう? 君たちは同じ八葉で玄武の天地なのに、それほど親しげには見えなかったからね。だから、少し不思議に感じたんだ」

.....まぁな。親しいというわけではない。でも、あいつはオレのところにいろいろ言ってくるんだ」

 迷惑そうに声をつくるが、まんざら不愉快なだけではなさそうだ。

「ああ、永泉様の方は、君のことを気に入っているようだからね」

「そうなのか? オレはあまり好かん。とろとろしてて鬱陶しいし、すぐに感情的になるではないか」

「だから、冷静沈着な君に憧れているんだろう」

 持ち上げているわけではない。友雅は真実そう思っているのだ。

「ふん.....そんなもんか.....

「人は無い物ねだりなのさ」

「そうかもな」

 そうつぶやくと、泰明は一つ吐息した。

「なぁ、 .....以前、オレが夜気に中ったとき.....永泉に遭ったという話をしただろう?」(『はじめの一歩収録』恋という字は変に似てる)

 ひとつひとつ慎重に言葉を選ぶ。

「ああ、憶えているよ。君は、おっかなびっくり、その話を私にしてくれたよね」

 友雅は思わず笑みをこぼす。さきほど冷静沈着と評した泰明が、あの時はもののみごとに慌てていたのだ。

「なんだ、へらへらするな! その時の永泉がな。すごく必死で、なんだか思い詰めた感じだったんだ」

「そうか.....

「ああ。あれは普段、ほとんどはっきり物を言うことなどないだろう。でも、その時はすごく必死だったぞ」

「君も後からそう言っていたよね」

「ああ。何だか知らんが、オレの強さがうらやましいとか抜かして.....『わたくしがもっとしっかりした人間ならば、頼久殿も.....』とかなんとか」

「うう〜ん、そういう問題じゃあないと思うんだけどねぇ」

「でも、あいつはそう思い込んでいる」

「そこが困ったものだよね。それに.....私が考えるに、永泉様はずいぶんと図太い.....と失礼、情念のお強い方だと思うんだけどねぇ」

 形のよい指先を、うっすらと紅みの差した唇にもってくる。上背は泰明などよりもよほどあるし、ガタイもしっかりとした橘の少将殿であるが、長い睫毛に縁取られた瞳と、淡やかな微笑をたたえた朱い唇が、なまめかしい雰囲気をかもしだす。妖艶と表現するのが一番ふさわしかろう。

 

.....友雅」

 呼びかける声音が少し堅くなる。

「なんだい?」

「変なことを言うようだが.....

「うん?」

.....恋愛は.....性愛で.....それはやはり子孫繁栄なのであろうな」

 透き通るような青白い顔をこわばらせ、安倍泰明はつぶやいた。

 言葉だけ聞いたならば、吹きだしてしまいそうな、その内容。

 だが、表情からも読み取れるように、泰明は大まじめに言っているのだ。

 

.....泰明殿.....

 橘友雅は、次に語りかけるべき言葉を、しばし模索したのであった.....